九州大学 将棋部

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「九棋」第15号 誕生秘話

九棋編集裏話②

執筆者:菅井

あれは確か、夏休み前の事だった。「部誌を作ろう!」と湯が話していて、「頑張って。僕は手伝わないよ。」と言ったのを覚えている。そう、僕は部誌の作成には関わらないつもりだったのだ。それが、気付いたらこんなことになっていた、という話である。

7月
前期ももう終わりという頃、部室からの帰りだったと思う。
米村さんに、「菅井先生、部誌に図面入れる作業やってくれない?」と誘われ、それを断れず渋々承知してしまったのが事の始まりだった。
その時の米村さんの話では、「8月中旬には原稿ができるからそれに図面を入れてもらえばいい。8月中には完成する予定。」とのことだった。僕も、夏休みは教習所に通う予定だったので、さっさとやって教習が始まる前には終わらせよう、くらいに考えていた。
後日、「2016年度春部誌編集委員会」というLINEのグループに招待される。

8月初旬
期末試験も終わり、ようやく暇になった。部誌の話が来ないな、と思いつつ帰省する。米村さん曰く、僕は校閲が終わった原稿が届き次第図面を入れ、文章の体裁を整えればいいらしい。
帰省前に部室で、湯、有田と部誌のイメージについて話をする。湯曰く、「『将棋世界』のイメージで。」とのこと。縦書き三段という文章のスタイルはここで決まったと思う。僕は原稿をそのスタイルに変換する仕事も受け持った。 この頃、LINEで「google driveに原稿をアップしました」という話が米村さんから出ていたと思う。開いてみて、アップされている原稿が少ない気がしていた。

8月中旬
実家にいてもLINEで連絡が来るので編集作業には支障はない。早く部誌の編集を終わらせるつもりでいた。
「校閲が終わった原稿は『β版』のフォルダの中に入れる」という事だったので、そのフォルダを見るが一向に新たな原稿が入ってくる気配はない。一つだけ原稿が入っていたので、その原稿のスタイルを打ち合わせ通りに変更し、図面は付けた。確か、有田の自戦記だったと思う。
流石にこのペースでは8月中には完成しないだろうと思い、湯と連絡を取り始める。米村さんは何も言わないが、さすがにこれでは進まないだろうと。米村さん何もやらない説が出始める。

8月下旬
原稿も少しは増えたが、なかなかβ版にはあがってこない。湯へ催促するも、湯も大変そう。校閲作業をしているのは、殆ど倉橋一人であるらしい。この頃から編集委員会はほぼ2年生(+有田)によって運営されることになる。
漸くいくつかの原稿がβ版に入る。8月中に僕が編集した原稿は確か、4つ程度だったと思う。
そうこうしているうちに、富士通杯の時期が近づく。当初の予定は8月中の完成であったが、富士通杯には間に合わない気がしていた。

9月上旬
「富士通杯に持っていくつもりなら急いだ方が良いと思う。」こう催促しても、作業はあまり進展しなかった。この時点で編集がほぼ終わっていた原稿は6つだったと思う。
結局、完成しないまま富士通杯を迎える。
富士通杯では、かなり良い内容の対局が多かった。やはり、全国大会になると勝負に対する気迫も、対局のレベルも違う。棋譜を取りながら一人感激していた。なかなかチームでの勝ちが付かなかったが、負けた対局にもかなり惜しい内容のものが多かった。名局が多い、そう感じた。

9月中旬
部誌が完成しないので、書き始めた富士通杯の自戦記・観戦記も盛り込むことになる...。
まだまだ部誌は完成しそうにはない。

つづく...



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